映画『シン・ゴジラ』の蒲田ロケにエキストラ参加したときの話・プラスアルファ

今回の記事は、ライターの堀雅俊さんが執筆したものです。堀さんは、東京でフリーランスとして活動していましたが、2015年10月に出身地である福岡県北九州市へ移住。九州・中国地方を中心としたエリアで取材・執筆の仕事をしています。特撮怪獣映画が大好きなことから映画『シン・ゴジラ』の撮影に参加したそうで、アークとのご縁が長い堀さんに記事を執筆してもらうことになりました。前半は、蒲田ロケに参加したときの体験記、そして後半は、完成した映画を観賞しての所感的な文章になっています。楽しく興味深い内容ですので、ぜひともご一読ください。(公開:2016年9月16日/更新:2022年4月22日)

※本記事は映画『シン・ゴジラ』に関するネタバレが若干含まれております。映画をまだご覧になってないかたはご注意ください。
「拙文のネタバレ程度で魅力が色褪せるほど『シン・ゴジラ』は薄っぺらい映画じゃありませんが…(^_^)」堀雅俊)
※姉妹記事「映画「シン・ゴジラ」聖地巡礼〜大田区役所とか商店街とか銭湯に話を聞きにいってきました」もご覧ください→https://www.ark-gr.co.jp/blog/shin-godzilla_seichijunrei/

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2015年9月6日を忘れない。

2015年9月6日。日曜日。
まだ暗いうちに自宅を出て始発に乗り蒲田へ向かった。
午前6時10分蒲田駅着。駅で待ち合わせしていた夫馬(ふま)さんと合流する。
集合場所の「ニッセイ・アロマ・スクエア」へ着くと、すでに大勢のエキストラが集まっていた。それだけで、なんだか心が躍った。

当時は「ゴジラ2016(仮)」という呼称が使われており、その「ボランティアエキストラ募集係」からの「当選通知」をメールで受け取り、ロケ現場へとやってきたわけだ。
アークで同僚だった夫馬さんは平成ガメラでもエキストラを経験しているということで、こちらから声をかけてご一緒いただいた。

すでに、7月に東宝のスタジオで行われた「デジタル素材」撮影にもエキストラとして、ともに参加している。
夫馬さんはヘルメットと作業着を身につけ、どこから見ても「工務店の社長」然としていた。俺はというと、「『深夜食堂』のマスター」の出で立ちで撮影に臨んだ。

スタジオに入ると、立ち位置を360度取り囲むようにして無数のカメラが据え付けられていた。「ああ、『マトリックス』みたいなことね」と、自分の考えが合っているのか的外れなのか判然としないまま、俺は納得した。
結局、このときに撮ったものが映画に使われたかどうかはわからない。実際に映画を観てもわからなかった。

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そのときの撮影にくらべると、この蒲田ロケは規模が大きそうだ。
集合場所に数百人はいるように思える。まもなくスタッフからの注意書き(のちに「蒲田文書」と呼ばれてネットで出回るようになったもの。保管していたはずが引越したことで行方不明に…)、ロケ地の地図、お茶とおにぎりが配られた。

早朝なので朝食をとらないまま、ここへ来た人も多いのだろう。もらったとたんおにぎりにかぶりつく人だらけ。そこいらじゅう山下清状態。
が、俺と夫馬さんは、せっかくのスタッフの心配りではあるが、ベストコンディションで撮影に臨むため、おにぎりに手をつけないことを選択。
とにかく走ることになるだろうから、満腹のせいで気持ち悪くなり白米を胃の腑からリバースするというようなみっともないまねをしでかして、撮影クルーに迷惑をかけるわけにはいかない!
おそらくそのとき、俺も夫馬さんも、1982年公開の深作欣二監督作である映画『蒲田行進曲』のクライマックス、「階段落ち」の撮影に向かう前の「ヤス」と同じ心境になっていたと思う。
「俺たちはエキストラのプロなんだ!」

で、そんなふたりの思惑はだれに気づかれるでもなく、集合の合図でいよいよ現場へと向かう。のかと思いきや、助監督さんたちから本日の撮影内容の概要と作品内での設定が伝えられる段取りへ。
チーフらしい助監督が「ゴジラ」のことを、その段階では「ゴジラ」と言えない(周囲には作品を明かさずに進めるらしい)ので、「モナコ」と表現していた。「ええと、モナコがいきなり現れるので、みなさんは驚いたりパニックになったりして…」などと言ってたが、「ゴジラ」にくらべて、ふにゃふにゃした響きの「モナコ」が引っかかって、説明が全然入ってこない(笑)。

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その後、現場へ向かうのに全体がグループ分けされる。大勢なので一気に移動すると、日曜の朝とはいえ、蒲田住民の生活に支障をきたしかねないという配慮なのだろう。
いざ出発すると、グループ分けしたとはいえ、やっぱりそれなりの人数の集団移動というのは目立つものなので、道行く人たちから「なにごと?」という視線を向けられ続けた。

で、集合場所から徒歩数分、蒲田駅前の大通りへ到着。ここがロケ地。
東口のロータリーのあたりから、蒲田5丁目の交差点あたりまでの車道を封鎖してある。少なくとも200mぐらいはあるだろう。
ロケのために用意されたバスやクルマも停まっている。クレーンに載せられたカメラも見える。「これ、これ、これですよ!」と、『孤独のグルメ』の主人公のように心のなかでつぶやく。
グループごとに立ち位置を割りふられ、スタントマンが運転するクルマの動きなどが、メガホンで説明される。ああ、いよいよ始まるんだなあ。

と思ったものの、またもやすぐに始まるわけでなかった。大勢のスタッフが連絡を取り合いながらスタートのタイミングを調整するには時間がかかるのだろう。
すでに異様な雰囲気を察した通行人が、歩道の交通整理をしているスタッフに「何の撮影?」と質問している。スタッフは、あらかじめ答えを用意してあったと見えて「さあ、私も聞かされていないんですよね」と即答。嘘つけ(笑)。

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そろそろ待ちくたびれたと感じはじめたころに撮影開始。
助監督からの指示では「巨大生物が現れたといっても、人の反応はさまざまなはず。猛ダッシュで逃げる人、後ろを振り返り振り返り走る人、叫ぶ人、しっかり写メする人などもいるでしょう。一人ずつに演技はつけられませんので、みなさんそれぞれに考え、身の安全に注意して動いてください」ということだった。

で、俺的には、「正体不明の巨大生物の出現に驚きすぎて一瞬その場を動けず、パニックになったせいで何を思ったか、いきなり歩道の花壇のへりに飛び乗って携帯で巨大生物の写真を何枚も撮りまくってしまい、ようやく逃げ惑う人たちの声に我に返り、自分もあわてて逃げ出す」という演技プランを立てて撮影に臨むことにした。

最初のリハーサルで演技プランを実行に移すと幸いなことに、携帯を巨大生物へ向けている俺へ、「おいっ、何やってんだ!早く逃げろ!」と、走りすぎる人がとっさに声をかけたことで、あわてて逃げ出す絶好のタイミングをつかんだ。おし!見事な演技だ、俺。カメラがどこから自分を撮っているかはわからんが。

ところがである。逃げ惑う集団のなかに飛び込んでみて、気がついた。「身の安全に注意して動いてください」と言った助監督の言葉の意味を。
みんなが役になりきっているので、ひたすら全力で走っている。叫び声をあげるうちに脳内物質が出て興奮し、本当にちょいパニックになっている。そんな人間たちに前後左右を取り囲まれている。逃げ場がない。走る速度を合わせないと、危ない。転びでもしたら、将棋倒しになるかもしれない。急にこわくなった。

「カット」の声がかかって集団が走るのをやめ、ようやくその恐怖から解放された。こええなあ。でも、みんな真剣になりきってんだから、俺もなりきって走らなければ。やっぱ、おにぎり、食べなくて正解。

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本番の声がかかるたび、何度全力疾走したかしれない。毎回100m近くは走っている。息があがる。おにぎり食べなくても吐きそう、やばい、と焦り始めた矢先に、ようやく「OK」の声。「終わった?」と、気を抜きかけたら、カメラアングルを変えて、また同じことを繰り返すという。

次のスタートがかかるまで、エキストラは道端で待機。アンジェリカ待機。車道に座り込んでいる人もいる。
それにしても、暑い。まだ夏の暑さが残っているなかでの撮影だが、作品の設定は「11月」なので、長そでを着ていないといけないのだ。とりあえずもらったお茶で水分補給。ごくごく。うめえなあ。びーるのみてえ。
暑いし、息があがるほど走らされるし、体力的にはかなり大変なことをやらされているのに、文句を言い出して帰るような者は一人もいない。みんなおそらくゴジラが好きだから。大汗をかいても息をきらしても、だれもが楽しそうだ。
俺と夫馬さんも撮影の合間は、ロケ用のバスの前で記念撮影して楽しんだ。

撮影が再開すると、また全力ダッシュ。そして、その繰り返し。で、ようやく「OK」がかかったら、カメラアングルを変えるのを待って撮影再開。そんなことを3、4セットぐらいやっただろうか。
「オールOK」の声がかかったときには、現場から自然と拍手がわき起こった。

樋口監督も、庵野総監督も顔を見せ、満面の笑顔で、参加者の労をねぎらう言葉をかけてくれた。ふたたび起こる拍手。みんなが拍手している。
なんだろう、この一体感!やっぱ来てよかった!

公開された映画を観たら、蒲田のモブシーンなんてあっという間だったし、手持ちカメラの映像が主体で、自分の姿どころか人の顔さえしっかり確認できるようなものじゃなかった。
しかも、俺が恐怖を感じて逃げた巨大生物って、あんなの(第二形態)だったのかよ!と、映画館で思ったし。俺の演技プランは何だったのか(笑)。

それでも、『シン・ゴジラ』にエキストラ参加できてよかった、と思う。あのときの一体感のなかに身をおいた感覚は、一生の思い出になるだろう。

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そんなふうに蒲田ロケ撮影は終わったが、
俺にとって、9月6日はまだ終わったわけじゃなかった。

その日の夜中。正確に言えば日付が変わってまもなく、母親が死んだからだ。

ずっと入院していた病院から「会わせておきたい人がいるなら、今のうちに」と、最後通告ともとれる指示が実家の父親へあったのは前日。
しかし、俺はすぐ実家のある小倉へ戻らなかった。
なぜかはわからないがそのときは、俺が行くまでは母親が絶対に「待っていてくれる」と思い込んでいたのだ。

撮影が終わった後、俺は夫馬さんに事情を話し、蒲田から羽田へ向かい、故郷へ飛んだ。
病院に着くと面会時間は終わっていたが、担当医の先生の配慮で面会を許された。

母親はやはり待っていてくれた。
目もあけず口もきかず、ただ仰向けに横たわって、意識もあるのかないのかわからないほど何の反応もなかったが、待っていてくれた。

対面を終えて実家へ戻って数時間。深夜に病院から呼び出しを受け、父親と妹と三人で駆けつけてまもなく、母親は逝った。

人の道に照らせば、もっと早く東京から故郷へ向かうべきだったかもしれない。
でも、俺はそうしなかった。
それがわかっていたから、残りわずかな命の灯をかすかにともしながら待ってくれていたのかもしれない。非道い息子のことを。

母親のことを、ここで何と呼べばいいのかわからないから、放映中のNHK連続テレビ小説『とと姉ちゃん』で使われている、母親に対する呼称「かか」を拝借することにする。

かかよ。身勝手な息子を待ってくれていて、ありがとう。
遅くなってごめん。

でもね、俺はまた同じことがあったら、きっと同じようにすると思うんだ。
それは、俺があなたの子だからじゃないかな。
言葉にして言われたことはなかったが、生き方を見せてくれたから。
かか自身が生き様で教えてくれたから。

人生は、
ほかのだれのものでもなく、それを生きる人自身のものであり、
ただ一度きりのものだ。
たとえ他人がいいと言わなくても、自分がいいと思うのなら、
迷うことなく堂々とやれ。
そして、やるんだったら一生懸命やれ、と。

かかよ。9月6日を俺に与えてくれて、ありがとう。
この日に蒲田へ行くことをよしと決め、一生懸命にやったよ。

これからも何度でも、9月6日を思い出すよ。
あの日の暑さを、喉の渇きを、拍手の音を、胸の高鳴りを、
俺は忘れない。在りし日のかかの面影とともに。

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▲エキストラ参加の記念品は3回参加したので3個あります。1回目:デジタル素材撮影でもらったステンレスボトル。2回目:蒲田ロケでもらったミニトートバッグ(夫馬さんは、セカンドバッグタイプ)。3回目:首相の記者会見シーンのエキストラでもらったタオル(蒲田ロケで樋口監督が頭に巻いてたという噂)

『シン・ゴジラ』とは、絶望を味わってなお立ち上がろうとするすべての人たちへのエール、そして、不可能を可能に変えることのできる人類そのものへの讃歌。

私が参加した、あの蒲田ロケ(エキストラ体験記も併読いただければ)からちょうど1年後…
奇しくも本年9月6日、『シン・ゴジラ』は公開後40日間で観客動員数420万8608人を突破し、1984年公開『ゴジラ』以降の「平成ゴジラシリーズ」において最高の観客動員数を記録したという。(数値データは「ORICON STYLE」より引用)

偶然は重なるのだが、『シン・ゴジラ』公開が明日に迫った7月28日、私は仕事で広島にいた。地元の方の案内で平和記念資料館を初めて訪れ、原爆投下時の様子を示すさまざまな資料を目のあたりにした。
2年前に公開された米国レジェンダリー・ピクチャーズ版『Godzilla』では、渡辺謙演じる芹沢猪四郎博士の父親が広島で被爆した設定になっていた。『シン・ゴジラ』で、「核兵器」はどのように描かれるのだろうかと、ふと思った。

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そして、翌7月29日。封切りの日に映画館へ足を運んだ。

で、鑑賞後の率直な所感をひと言で言うなら、
しっかりと創り込まれた、素晴らしい作品。

徹底取材をもとに書かれたのであろう。庵野秀明総監督の真骨頂と言える圧倒的な情報量を巧みに駆使した構成で、緻密に練り上げられた「脚本」。
さらに、庵野総監督、特技監督の樋口真嗣監督、特技総括を務める尾上克郎准監督という異例のトロイカ体制を頂点とした総勢1000名を超えるスタッフ、加えて328名のキャスト陣による「念の入った仕事」の総和が、みごとに大輪の花として咲いている。

ゴジラ自体がオールCGというところから、その世界観まで、これまでのゴジラものとは完全に異なるアプローチで描かれた日本製ゴジラ映画になっているのだが、物語の大きな特徴のひとつは、出てくる人間が、ほぼ政府の人間か自衛隊関係者だということ。

彼らは「国防」という一点のみに向かって、己の責務を全うしながら奮闘する姿を観客に見せる。それぞれがありったけの知恵を振り絞り能力を出しきって、想定外の状況に立ち向かう。
國村隼演じる統合幕僚長の「礼は要りません。仕事ですから」という、毅然としつつも肩の力の抜けた台詞まわしが印象に残る。日本を護るプロフェッショナルたちの総力戦。

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そして、ゴジラは、レジェンダリー・ピクチャーズ版のように人類の守護神としてではなく、都市生活圏をただただ破壊し続ける、圧倒的、絶対的な力をもった脅威の存在として登場する。そういう意味では、1954年の第一作と同じスタンス。

劇中では「呉爾羅(ゴジラ)」は「荒ぶる神」の意味だと説明される。
ゴジラ自身の一番の見せ場である首都中枢部の破壊シーンは圧巻。
あんまり書いてしまうとアレだが、口から吐くやつが「ごおおおおおお」じゃなくて、巨神兵の「パウッ」のプロトンビームみたいになってて。すげえんだ、威力が! あっちゅうまに首都壊滅。

『風の谷のナウシカ』において「火の七日間」で世界中を焼き尽くした巨神兵パートの原画を担当し、実写特撮映画『巨神兵東京に現わる』でも東京を火の海にして、まさに荒ぶる神の猛々しい所業を描ききってきた庵野監督の仕事は、この『シン・ゴジラ』を世に送り出すためにあったのかと思わせるほどだ。

人智を超えた恐るべきエネルギーを爆発させ暴走する破壊シン。
「俺たちの強いゴジラ」を見届けにきたファンにとっては、思わず快哉を叫んで「よっ!ゴジラ屋!!」と、大向こうから声をかけたくなるぐらいに胸のすく場面だった。
怪獣の王ゴジラはやはり、何者をも凌駕する底知れない力をもった絶対的存在として描かれることがふさわしいのだ!

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その一方で、リアルに描かれた首都破壊の映像は、見る者に問題提起も行う。
ゴジラは、いわば「動く大型原子炉」。国連は、核には核で対抗を、という姿勢で核兵器による攻撃を指示。広島、長崎に次いで東京へ3度目の、あってはならない歴史的事態が迫ろうとする。

未見の方のためにその後の結末は秘すが、物語の最後に、官房長官のこのような台詞がある。
「この国はスクラップ・アンド・ビルドでのし上がってきた。
今度もきっと立ち直れる」

主人公もまた、こんなふうな言葉を吐く。
「大事な人を失った哀しみは消えることはない。
が、それを乗り越えることはできる」

これらの台詞は、現実の戦後復興や震災後の復興に重ね合わせて書かれたものではないだろうか。

だとすれば、この映画に込められているのは、
「絶望の淵に突き落とされながらも、
いつしか希望の灯を胸に宿し懸命に這い上がろうとする、
すべての人たちへのエール」であり、
「英知を結集し不可能を可能に変えることのできる
人類そのものへの讃歌」
なのだと、私は感じる。

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※劇中の台詞の表記については、筆者が映画館で観たときの記憶を頼りに書いたものですので、細部まで正確とは言えないことをご了承ください。

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▲1954年公開『ゴジラ』のポスター(レプリカ)に、取材でお目にかかった宝田明さんにサインをいただきました。最初に黒ペンで書いてくれたんですが、宝田さんが納得しなくて、マネージャーさんに持ってきてもらった銀の油性ペンで書き加えたのでサインが2つあります。そういう意味でもお宝です

●文・撮影=堀 雅俊
●撮影=清水亮一(アーク・コミュニケーションズ
●編集=大山勇一、魚住陽向